かぼちゃねこ日記

アメリカから見えるもの。考えたこと。

子どもが産まれてからの11年を振り返る

こべにさん(id:kobeni_08)の記事に触発されて、私も親としての10年、じゃなかった11年を振り返ってみたいと思う。

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2007〜2009年 長女出産、時短勤務

長女を産んだのは2007年。
出産前に母ががんにかかった。
初期だったので手術で除去できたが、力仕事ができなくなったので、これを機に母は仕事を辞めた。
私のサポートをするね、と言ってくれた。

 

私はおとなしい赤ちゃんだったらしく、「赤ちゃんはミルク飲んでるか寝てるかだから大丈夫。」と母から聞いていた。
しかし長女はそんな赤ちゃんではなかった。
夜泣きで不動産屋から苦情の手紙が2回きて、泣き始めるとまた手紙が来るんじゃないかとびくびくし、公園や夜の街に出て行って散歩。寝付いたかなと思ってベビーベッドに置くとまた目覚めて泣く、という日々が続いた。

 

入社3年目で産んだため、周りの友達は誰も子どもを産んでいない、ツイッターもブログもやっていない、まだガラケー全盛期だった。

 

年上の女性の同僚に「こんな時期に結婚するなんて仕事のことを考えていない。」
「育休中に赤ちゃんを会社に連れてくると、あなたのイメージが下がるかもしれない。」と言われ、私は結婚出産した自分に「罪の意識」を常に持っていた時期だった。


妊娠の報告を上司にした時も「いいニュース?悪いニュース?」と聞かれ、「悪いニュースです。」と言った覚えがある。
その時上司はすごく喜んでくれて、「悪いニュースじゃないじゃん!いいニュースじゃん!おめでとう!」と言ってくれてびっくりした。そうか、めでたいことなのか、と。

 

出産後、会社から「元気にしてますか?」というメールが時々くるが、ずっと赤ちゃんを抱っこしているので(抱っこしないと泣く子だった)、パソコンを開くこともままならず、返信はとてもできる状況でなかった。
内祝いを送ろうと思ってパソコンを開き、住所入力している途中で泣かれ、抱っこをし、少し落ち着いたかなとパソコン前に戻るも、「30分以上入力がなかったため、初期画面に戻りました。」という画面になっていることが何度もあった。


片手で操作できるスマホがない時代の私は孤独だった。
家庭訪問の助産師さんに「子ども広場にぜひきてねー。」と言われても、夜泣き対応で午前中は子どもをラッコのように腹に乗せたまま爆睡していた。

 

会社では私は事業部内で初の産休育休を取った社員だった。
総務に聞いてもよく分からず、別部署にたくさん産休育休を取った女性がいるから、と紹介してもらった。
先輩WMにたくさん相談して、その方達が心の支えだった。

 

長女出産後10ヶ月で職場復帰。
産後うつ育児ノイローゼ寸前だったので、「やっと自由になれる」という気持ちでいっぱいだった。
それでも復職すると「もっとゆっくり休んでてよかったのに。」という声。
「私は限界なのに、なぜそんなことを言うの、これ以上家にいたら壊れてしまう。」という思い。
「私は会社に必要とされていない。」という悲しい現実。

 

復職した後は、時短勤務でも支障のないように、自分のペースでできる仕事になった。
私もそれを望んでいたし、職場も最大限の配慮をしてくれたと思う。
しかし、自分が休もうが外出していようが誰にも迷惑がかからず、誰も私のスケジュールを気にしていない、完全なる職場のお荷物というか空気と化して、マミートラックをぐるぐるしている現実は辛かった。
「私、このまま技術も何も身につけられず、お荷物のまま定年まで会社に行くのかな」と思うとぞっとした。
上司も変わり、新しい職場の知らないWMにどの位仕事をさせていいかも分からず、困っていたと思う。

 

暇なので、先輩WMが企画したイベントを手伝ったり、ふらりと外出して他の会社の話を聞いたり、好きなことを好きなだけやった。

 

みかねた上司が「やりたい仕事のアイデアを出して」と言ってきたので、色々と案を出し気になっていた他社に連絡を取ったところ、思いがけず大きな仕事を任せてもらえることになり、2年間で時短を終了、全日勤務に戻ることにした。


2010〜2012年 全日勤務、次女出産

この期間は「実家カード」を使いまくり、母にお迎えや夕飯を頼んで、働きまくった。
久しぶりに全力で働く日々。
仕事は大変だったけれど、充実していた。

 

今思うと、その頃職場にようやく増えてきていた後輩女子にとってはあまりよいロールモデルではなかったかもしれない。
出産、妊娠してもあんなに働かなきゃいけないんだ、って思わせてしまったかも。
それでも全力で仕事ができる期間があったのは幸せなことだった。

 

その頃先輩と企画した会で、会社で唯一の女性管理職である方は「もし転勤と言われたら、迷わず単身赴任する。」と発言した。
後輩達は「そこまでしないと偉くなれないんだ。」とその言葉をかみしめていた。

 

段々私も子どもも母も疲弊していった。このままだと壊れるな、と思う働き方だった。
次女妊娠中も産休直前まで終電まで働いていた。実際は体がつらくてとても終電には乗れないので、タクシーで家に帰っていた。
夫も同じような働き方で、土日はどちらかが子どもを見て、どちらかは休日出勤していた。

 

夫が続けて2回、事故にあって救急車で運ばれ、その度に母に長女を見てもらって病院に向かった。
「後遺症が残るかもしれない、死ぬかもしれない、そしたら私が大黒柱になって家族を支えよう。」と病院に向かうタクシーの中で考えたことを思い出す。
幸い夫はその後元気になって働いているけれど、人生って何があるか分からないということを身近に感じた。


2013〜2018年 待機児童、海外赴任帯同、退職

次女を出産して3ヶ月後に職場復帰を試みたが、保育園に入れず待機児童になった。
ここまでは想定内だったので、あと1年育休を伸ばそうとしていた。
そこで夫が海外赴任の可能性があると言ってきた。
「はいはい、単身赴任ね。」と思っていたが、色々あって結局、帯同することに決めた。

 

satsukinmnl.hatenadiary.jp

 

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やっと母親離れできたのも、渡米する時だったと思う。
就職して一人暮らししても実家の近くでしょっちゅう会っていたし、子どもが生まれてからは母の手がないと生活が回らなかった。
けれど、アメリカには親戚も友達も知人もいなくて、夫も月の半分くらい出張でいなくて、一人でとにかくやるしかなかった。
母は不整脈が出るようになって、とても十数時間飛行機には乗れないと言っていたし、実際パスポートも持っていない。
私に何かあった時どうするつもりなんだろう?と思ったけれど、絶対に家族全員死なせないで日本に帰ってくること、それが私のやるべきことなんだな、と思った。

 

育休を最大限取ったけれど、結局育休期間中には日本に戻れず退職。
後輩女子に「やめるなんてもったいない、再就職しても制度的にすごく不利ですよ」とLINEをもらうも、子どもがアメリカの生活に慣れてきたばかりということもあって退職に踏み切った。

 

再就職制度があるのでそれに登録した。
再就職の際に時短勤務ができない制度だったので、辞める前に後輩達のためにできることを、と思って再就職後も時短勤務できるように組合と会社に掛け合った。
この時も先輩WMと女性管理職が強く支援してくれた。
その後、時短勤務可能になったらしい。
やるべきことはやったな、とすがすがしい気持ちで退職できた。

 

アメリカにいるうちに祖母が亡くなった。
お葬式も出られなかった。
海外で暮らすというのはそういうこと、と思って、渡米前にたくさんの人に会っていた。
特に70代以降の人とは、これが最後に会えるチャンスかもしれない、と思って。

 

18歳の時にもう一人の祖母が亡くなった時、私は食べられなくなり、その後3年間くらいうっすらと死にたかったけれど、この時の私は少し泣いて、それでも家庭を回し続けていた。
歳をとって家族を持つことってこういうことなんだな、と分かった。
悲しいことがあっても落ち込む暇がない、家族の生活がかかってるから自分は絶対に死ねない。

 

アメリカで私は強くなった。
でも孤独ではなかった。
クックパッドでこちらで調達できる材料でできる日本食を調べ、ツイッターでみんなと遊んで会話し、ブログを書いた。
インターネット最高!
ネットとスマホがなかったら、私はあっという間に孤独にはまって抜け出せなかっただろう。

 

退職後に別の会社から、子どもが学校や幼稚園に行っている間にできる仕事をもらって細々と仕事もした。
担当者の方は夫さんの転勤で引っ越したが、在宅勤務で引っ越し後も同じ業務をされていた。
本当にインターネットは最高だ。それをうまく使いこなして働き続けられるようにする会社もたくさんある。


新卒の時は毎日でも働けるし、転勤も怖くないから全く分からなかったけれど、転勤が当たり前、残業が当たり前、の会社もあれば、在宅勤務OK、フレックスOKの会社まで様々な社風があって、その風って思ったよりびゅーびゅー吹き付けてくる。
毎日向かい風にあたってると、そこで働くのがつらくなる。追い風だと働きやすい。
だから自分にとって追い風の会社を見つけるのが大事だな、と今は思っている。

 

日本に帰国したら、日本の学校に通ったことがない子どものカルチャーショックに対応しなければいけないし、アメリカでは車で送迎していたのにいきなり一人で留守番しなさい、電車に乗って習い事や塾に行きなさい、とは言えないので、働き方はセーブしようかなと思っている。
母も歳をとって昨年手術も受けたので、前のように全面的に頼るのも避けたい。

 

介護をしながら働いている方に、退職することを伝えた時「いつかまた働ける時が来るから、焦らないで。」と言って下さった。
今、その言葉が響いている。

 

振り返ってみて、この11年は目まぐるしく状況が変化する特別な11年だった。
働き方や家族についての考え方もがらりと変わった。
ここからの10年はどんな風になるだろうか。きっとここからもどんどん変化するに違いない。そんな自分が今、とても楽しみ。